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インタビュー画像上原正士/代表取締役/

SE・PGとして、この先のキャリアに迷いを感じているあなたへ。

SE・PGとしてのキャリアアップを考えているあなた。 当社、株式会社USDに興味をもってくれて、本当にありがとう。 代表を務める上原正士です。 当社は2004年に、ウエハラ・システム・デザインとして創業し、今年で創業13年になります。 私がお客様の前で広げる大風呂敷を、みんなで必死こいて畳むという極めて原始的な営業スタイルで、厳しい競争を勝ち抜いてここまで来ました。 社長の私はいつもヒヤヒヤしながら、頼もしいメンバー達の活躍を眺めてきただけです。 そんな環境だから、働く場、キャリアを磨く場としてUSDは最高の場所だと胸を張って言います。 それはもう、信じてもらうしかない。 だから、USDの社長である私が、経歴と共に自分自身をさらけ出します。信じてもらうために。 もう隠すものはパンツの中身以外ない! そう宣言します!

【第1章:上原正士、SEへの道】

私の父は戦前、通信兵として日本海軍に従軍していました。 14歳で入隊し、モールス信号の技術を習得。16歳で終戦を迎えました。 彼はその後朝日新聞の社会部の記者となり、結婚し、やがて私が生まれました。 そんな男を父親にもったものですから、私もその影響下で育つわけです。 「正士よ、18歳になったら広島江田島の海上自衛隊の学校へ行き、将来は将校になるんだ」 そんな言葉を常に投げかけられていたように思います。 私もその言葉を鵜呑みにしていて、 「リチャード・ギア(『愛と青春の旅立ち』)、トム・クルーズ(『トップガン』)、そして俺」みたいな気分に浸りきっていました。 海軍の将校といえば、当時の私にはハリウッドスターのイメージでしたから。 「将来は将校の真っ白な制服を着て、オープンカーの助手席には金髪ボディコンねえちゃんか!」と。 でも、私はバカだったのです。 二浪が決定した途端に、父によって専門学校へ放り込まれてしまいました。 そこで出会ったのがプログラミング言語「COBOL」「Z80 アセンブラ」とモトクロス。 性格の全く違う両者に挟まれるも、私の心と欲望の天秤は、バイクの誘惑に傾いていったのです。 そのため卒業後就職した開発会社では、まったく使い物にならないPGになり果てました。 ここでいうPGとはプログラマーのことではなく、「パッとしないゲス野郎」という意味です。 骨抜きにされていたモトクロスでも、22歳の時に事故を起こし左手粉砕骨折という不幸に見舞われます。 そこで初めての挫折を味わうことになりました。 治療という美名の下に隠れたリストラ、クビ宣告です。 粉砕骨折ですから治療にも時間がかかり、29歳になるまでの7年間、毎年手術を繰り返すことになったのです。 そんなボロボロの体ですから、企業は相手になどしてくれません。 再就職もままならず、私は派遣社員としての日々を余儀なくされていきました。

【第2章 派遣切り、うつ病を乗り越えて】

時代は90年代前半。バブル経済が崩壊し、社会全体がどんよりとした空気感の時代でした。 派遣切りにも何度も遭いました。 当時は派遣先でのPCやネットワークの設定など、今で言うところのIT土方のような仕事ばかりをさせられていました。 そして、派遣先の都合でコロコロと職場が変わりました。 救いであったモトクロスの仲間たちとも、事故以来なんとなく疎遠になっていき、私は完全に孤独でした。 そんな日常は私の心をも犯し続け、私はうつ病になったのです。 今思えばハルシオンなど相当危険な薬も投与され、ボロ雑巾のような日々を過ごしていたのです。 転機が訪れたのは1995年。 電話交換機で当時名を馳せていたトーメン・テレコムに運よく転職ができたのです。 ボイスネットワークの世界は未経験。まったくの畑違いへ足を踏み入れました。 そのとき私は決意しました。 「とにかく2年間はいい人ぶるぞ。ぜったいにゲス野郎であることがばれないようにサバイブしてやる!」 うつ病患者の特徴として、ひとつの事に執着する傾向がありますよね。その対象が私の場合「仕事」と「ボディビル」だったのです。 だからどんどん出世しました。航空会社のコールセンター設置の際の設計という大役をも任されるように。 そして私は、仕事中毒になっていったのです。 トーメンに所属していた5年間は、仕事以外の記憶がないのです。 娘が小学生になり、ランドセルを背負って家を出ていくのを初めて見たのが9月。 それまで自分の子が小学生になっているという実感さえないほど、仕事漬けだったのです。 家庭崩壊もいいところの甲斐性のなさ。でも家族だけはこんな私を見捨てなかった。 それが私の幸福です。 その頃から私の人生も好転しはじめ、役職も上がり年収も増え、人脈も広がっていったのでした。気づけば、うつ病も何処かへ消えていました。

【第3章 経営という茨の道へ】

しかし人生とは不思議なものです。 ようやく光が見えてきたと思った矢先、金融バブル崩壊のあおりをうけ、私が所属していたトーメングループの合併が相次いだのです。 どうしても私にはそれが受け入れられなかった。ようやく手にしたその光を、自ら捨ててしまいました。 人生が不思議だと思うのは、自ら捨てた光を、拾ってくれる人がいるということ。 トーメン時代にお世話になっていたソニー(現So-net)のマネージャーさんが、行先を見失っていた私に、新しい道を拓いてくれたのです。 ただ、エンドユーザー向けの商売は私には向いていなかった。 仕事を楽しむことができず、このままではまたうつに陥るのではないか。。。 わずか2年で、またも光を自ら捨てる羽目に。 しかし、いつの間にか私の技術力は市場価値の高いものになっていたのです。 ある会社さんから年収1500万円個室付きプラス秘書という条件を提示されたこともあります。 様々な企業からのお誘い、すべてお断りしました。 どんなに稼げたとしても、誰かの下で使われるのではなく、呑気な南の島のカメハメハのように、ゆるい気持ちで働いていきたい。 大好きな仲間と大切な時間を共有し、雨が降ったらお休み気分で生きたいと考えたのです。 そのために、自分で会社を設立しようと心に誓いました。 資金を貯めるために、ひとまずフリーランスのシステムコンサルという道を歩みだしたのです。 月収400万円。住民税300万円。稼ぎまくりました。 その金でひたすら六本木のキャバクラを豪遊しました。接待というやつです。 ここで作った人脈と資金を活かし、2004年USDを設立したのです。 仕事は派遣時代、トーメン時代、ソニー時代に出会ったお得意様や同僚といった、過去に築いてきたネットワークに頼りまくりました。 みなさん、気前よく仕事をくれました。今もお付き合いのある方もたくさんいます。 茨の道だと自分でも思います。 骨折、リストラ、派遣切り、バブル崩壊。いろいろと経験しました。 会社設立後も、サブプライムショック、リーマンショック、ソニーショック、東日本大震災など、辛いことだらけでした。それでも、生き抜いてきました。 会社を大きくする方法はいまでもさっぱり分かりません。 でも、会社をつぶさずに、大好きな仲間たちと一緒に成長する方法は、この10数年で蓄積できたと実感しています。 今すごくすごく楽しい。 こんな私だから、いま仕事や人間関係で悩んでいるであろう若いあなたに伝えられることがあると思うのです。

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